予防接種なるもの、わたし自身は幼い頃には母の判断において受けています
今となっては信じられないだろうけれどその昔は
インフルエンザの予防接種だって学校で集団接種でしたし。
まあ今季限りしか効果ないし、ぶっちゃけ接種したのと違う型が流行したら意味無いけどねーw
くらいの軽い感じだったように記憶しています
それでもまあ結構楽しかった。
わたし自身は注射に恐怖心は全くなくて、それなのに
普段イキり散らかしてるあいつやコイツがちょっとビビってるのが可愛いかった(笑)
自分自身が母親になった時は
何冊もの育児書を読んで全てを真に受けて
何ヶ月の頃にはあれ、不活性化ワクチンなら次までどのくらい間隔を空けて…とかやってたっけな。
で、なんとなく読んだ薬害エイズ事件でお子さんを失ったお母さんの言葉が胸に刺さったんだよね
「この子のために、とうち続けた注射でわたしは大切な我が子を殺した」という内容だったと思う。
痩せて行く我が子のお尻が尖って来るのを太腿に感じながら母はそれでも注射をうち続け、そして…
こんな、こんな切ないことが起きるのだとそのとき初めて知ったし
誰よりも愛しい我が子を自ら少しずつ殺した、という思いを背負いながら生きる母親の苦しみの大きさはきっと誰にも理解どころか想像すら出来ないだろうと思った
もし罪があるとすればこの苦しみを誰かに負わせた何かがそれで
けれどそれがあってもなお、僅かに光があるのだとすれば
この母親の発信をもって他の誰かが何かを考えるに至る可能性が作られたってことを
誰かが密かに胸に刻めば良いのかもしれない
製薬会社のずさんさや、それを推奨した個人が
利益と引き換えに受け取ったものは罪という言葉では言い表せない
何かもっと本人の魂に対して影響を与えるようなものだし
そこは誰もが関われる範疇ではないので今回は触れないでおこうと思う
今回だけではなく予防接種について、わたしはその時々の自分の判断によって行動を決めて来た
結果として上から3番目以降は予防接種を受けていないけれどそれは
崇高な考えがあったわけでもなんでもなく、かつ
国に対して不信感を募らせたわけではもっとなく、ただ単にメンドクセーと思ったから。
予防接種の対象になっている疾患にはほとんどが対処療法が確立されているという
ならば罹患したそのときに対応すりゃえーじゃん、とそのくらいのお気軽さで選択したに過ぎない
まあ強いて言えば上の子のときには推奨されていた三種混合ワクチンが突然停止になり
しばらく間をあけて新三種混合ワクチンなるものが出たとき
はあ?と感じたことがあったり
ある特定の疾患に対してワクチンを作ってくれ、という要望に対して
その方がご存命のうちには何も動かない(ように見えるくらい慎重な)国が
今回はやたらもの凄い勢いでワクチン勧めてやがるな?ぐらいの違和感。
少し前には子宮頸がんの予防接種で若い女の子に何かが起きていたし。
違和感がある以上受けないわな、とこれも単純な決定だったし、だから
その先に起きたワクチン打ったのか打たなかったのか問題には全く興味はない
打ちたきゃ打ちゃええやん、打ちたくなきゃ打たなきゃええやん、そんくらい。
だいたい、ワクチンなんか打とうが打つまいがなんてことはない。
ただし、心底そう感じていればの話。
そして、打ったの打たないのでみんなの中にじんわり浸透する
自分以外との単なる意見の違いをさも魂の根幹の差異だと感じさせるような動き
それにまんまと乗っかっちまうほうが怖い気がしている
満月パワーをもらえるって感じているひとがエネルギーチャージしたり
天然石ビーズに傾倒するひとがそこからサポートしてもらえるのと同じで
そこに何某かを感じとれないひとはその影響を受けない、ってこと
ワクチン打たなくたってあんたは死ぬんだよ、と言いたい。
ワクチン打ったって死ぬしね。
マスクに及んではこれは完全にコミュニケーションツールだなと思っている
または、いじめと同じ。
悪気がなくてやったことだって、相手が不快ならそれを続けるのはいじめだと思っていて
マスクしてくれ!と思うひとが集ってるならはいはいわたしもしますよーって感じ。
マスクすることに何の意味があるかないかなんか知ったこっちゃない
マスクしたってあんたは罹患するしね、と言いたい。
マスクしなくたって罹患するしね。
ワクチン推奨派が打たないひとを揶揄するのと
ワクチン不要論派が打ったひとを軽蔑するのは根っこは同じで
この議論があまりにもどーでも良すぎていっぺん書いとこっかなーと思いました
ちなみに、我が家の12人
どのワクチン打っていようがいまいが
かかるものにはかかるし、かからないものにはかからない
家族全員罹患してる中で過ごしてもかからないものはかからないんだわ。