カトリック教会の限界…つまり聖書解釈の穴を見つけたとき
その中に留まることではなくひとり旅に出ることにしたわたし。
当然ながらミサに預ることもなくなっていましたが昨日
チビふたりの科学講座の待ち時間中何をしようかとぼんやり考えながら歩いていました
近くにずっと気になっていた小さな神社があるし
少し足を伸ばせば職場近くの大きな神社もあるし。
ちょっとご挨拶にでも伺おうかと考えていたとき
通り道にカテドラルがあることを思い出しました
時計を見ると時刻は10:00少し前。
ウェブサイトで調べるとミサは9:30スタートとのことなので
ちょうど聖体拝領くらいのタイミングかな、というところ。
カトリック教会のミサの流れは大きく分けると
聖書朗読、説教、聖体拝領という感じになります
キリストそのものである御言葉(聖書)を味わい
それについて補足としての説教があって
心を整えたところでキリストの身体であるパンをいただく。
聖書は好きだし聖体拝領について疑問はないけれど
どうしても神父のクセが出る説教が苦手なのです
神父は特殊な世界に身を置いて生活しています
肉としてのパートナーを持たないという”欠損”を意図的に纏うことで
そこに神が宿るとしているわけですが
ひととして与えられた性という衝動を捧げて生きるという
非常に根幹の部分を手放すということが
時にストイックになりすぎたり、逆に隠された欲望が渦巻いていたりと、なかなかに厳しい世界です
だからこそ彼らを”そこに召命されたもの”とするわけで
自我を超えた魂の望みがあればこそその状態が保たれはするわけですが
彼らもやはりひとなわけで常に自我とは共存し続けるのだから
それを闘いとして”良くないもの”と封じようとすれば怒りに似た香りが漂い
そればかりが肥大すればものすごい臭気を放つようになります
いちいちそれに触れた時代もありましたが
やはりその課題は彼らのものでありわたしのものではないと理解してからは
それにわざわざ触れに行くこともなく過ごしていたわけで
昨日だってなにも好き好んでそんな話を聞きに行きたいとは思わず
ちょうど30分が経過しているならこれ幸い、とドアを開けたわけでした
ところがどっこい。
生きているのか死んでいるのかもわからないような
どんより暗い顔のひとの群れのはるか向こうに見えたのは緑色の祭服を着た神父の姿…
結果的に彼はそこから30分の間、話し続けました。
すげえエネルギーだなおい。
でもね、すごく良かった。
昨日のテーマは掟(十戒)について、でした。
殺してはならない、という掟を頂いたとき
俺ぁ殺さないから関係ねぇーと、それを遠くに置き去りにしてしまっていたら勿体ないですね。ということでした。
殺してはならない、というのは肉体を壊してそのひとの生涯を断ち切るということだけではなくて
自分を含めたすべての人を幸せから遠ざけるようなことはしてはならないのだ、と解釈すれば
ぐぐっとその掟はあなたの側に来ませんか?
それを朝な夕なに自分のものとして心に留めるひとは幸いだ、と
それが神さまが大切なわたし達ひとりひとりに与えた恵みなのだ
というような内容でした
うんともすんともリアクションしない群衆に向かって
聖書の解釈を書き換えるようなお話を大切に大切に伝える
この労力たるや、想像を絶するエネルギーを必要とするはずです。
ミサって、主日だけにあるわけではなくて毎朝あるんです。
もちろん聴衆がいないことはあるでしょうが
だからと言って部屋でちょいちょいと終わらせる、などというものではなくて
式次第は何処も端折ることなく行われています
誰もいなくても毎日執り行うこと
誰かいるのにスルーされても毎日執り行うこと…
つまりそれを行うこと自体が自分(の魂)にとって幸せなことであると知らなければ何十年も続けられるものではないですよね
神父は、毎日御言葉に触れるたびそれを深く味わい
自分がそれをどう味わったのかを知るためにそれを行なっているのかもしれません
そしてそれは「今」を切り取る、ということに他ならず
写真家にとっての写真、文筆家にとっての文章画家にとっての絵、わたしにとってはここ、というように全てがそれなのでしょうね。
落書きしか出来ないなんとなく絵が上手いひと
被写体の事実より自分なりの表現を優先するひと
暴力的な表現しか出来ない物書き
わたしはそこにカテゴライズされてはいないか…天を仰いで自問するわたしなのでした。