この世での体験として具象化することでこそ
人ならざるもの…つまり神とかワンネスとか愛とかいうものが
ひとと同じ次元の出来事として地に降りるのではないか
と、わたしの密かな楽しみである”新しい世界の新しい言語”を
目に見えない世界からのダウンロード記事で読んだ。
おお、まさしくそれがわたしがずっと感じていたことだーと嬉しくなったので夜中に更新。
つまり、目に見えない世界のことばかりをくっちゃべっていてもこの世的にそれを使えない限り意味ねぇー、ってこと。
目に見えない世界について語る口は確かに必要なんだけど
その口がどこについてるのか、ってことも大切だというか
おまいう状態になってしまえばその話には言霊が宿ることは無い
まあそれでも音として発信出来ればそれを受け取れるひともいるのだから良いけれど
広くこの世に受け入れられ根付くためにはそれが素敵なものに見えなけりゃならぬ。
確かにこいつどっかに繋がってるぞ、というひとがいても
地に足が着いていなければただのキ○ガイとしか思われず
真理を語っていても戯言としてうち捨てられるってこと。
このひとホンモノだわ、ってひとはみな例外なく身体を使って得た経験をそのひとらしく表現している。
そしてその体験をシェアすることを望んでいて独り占めすることはない。
彼らの生き方に迷いは感じられず、”認められること”に固執する様子もない。
そして結果としてそれだからこそ認められるという現象が起きている、大好きなひと達。
わたしが高次元と初めてはっきり出会ったのは
休日、子ども達のサッカーの試合前におにぎりを作った時。
彼らは愛そのものであり、それをわたし達に伝えたくてたまらない。
それは新しい話なんかではなくて、すべての人の源でありいつもその人に実現し続けているということを思い出してほしいという願い。
神は全知全能だから尊いと宗教は教えるけれど
全知であっても全能ではない、とそれも同じひとの記事で読んだ。
神は望んでいる。ひとがそれを取り戻すことを。
ひとがこの世に産まれるために自我を纏うことを魂に許可したとき
神はひとに対して全能であることを手放し、送り出すのかもしれない
またここへ帰っておいでと常にそこが開かれていることを忘れるなよと
忘れてしまうことを知りながら送り出す。
なんと大きく深い愛なのかと今さらながらに思い知る
やっぱ神はイイわー。
つことでやっぱ神すげえ、になってるのは
ひとがこの世に生きながらそれを知るとこの世にうち捨てられたままになっている愛が見えてくる。
って書いてたら末子が「トイレ…」と目を覚ました(珍しい)
常夜灯がほのかに部屋を照らしてはいるけれど
まあまあ真っ暗な中、手を引いてトイレまで誘導する。
目が覚めきってしまわないように、そうしている。
産まれたばかりにはコントロール出来なかった排泄もすっかり身につき
教えたようにあれこれ使いこなしてまさしく”用を足す”姿を見守っていたらわかった。
これこそがおかあさんが子どもに手渡せる神の愛じゃまいか。
暗がりの中で求められたときに手をのべて誘導し用が足せるように促すが用を足すのは本人。
おかあさん本舗の象徴がわたしの手である意味がそれじゃよと天が言う。
やばー。
確かにこれを名刺に印刷したし意味としては理解していたけれど
こんなふうに腑に落ちると気持ちが良いな。
おかあさん本舗とは仰々しいなと名づけのときに感じたけれどいやいや、やはりこれで良かったのだ
おかあさんとは何か。何をするためにその道を歩き始めたのか
あなたらしさとは何か。今躓いているならそれがどうしてなのか
それを伝えることがわたしには出来る。
はぁ、なんかすっきりしちゃったー
てなわけでこれからもあーだこーだ書き殴るだけのちっこいサイトですが
もしあなたが苦しんでいるとして苦しみの理由が知りたいならコンタクトして下さいませな。
ご縁のある方と繋がる方式でやって行けたらと思います
セッション、やりますかー。