友人とのオンラインセッションで、今夜はそれについて話すようにと目に見えない世界のサポートがあった。
彼女はわたしよりずっと年下でとても美人。
とある場所でパートナーとすぴをテキトーに発信している
彼と彼女はこの世的な恋人という関係ではないけれど
これって愛だろ…という安心感を、見るたび覚えてしまってすごく好き。
互いに相手を合わせ鏡にして自らの癒しポイントを発見する関係らしいけれど
その癒しのためのエネルギーを相手には求めていない、というのが見える。
「オマエ、イラネ。」が互いに心の底から湧き出ていて、かつ見た目的にはすごくお似合いなのがうける。
そして二人の絆は他のひととでは成立しないことを互いに知っているらしい。
一方わたしも、大切なひとがいる。
彼とは今世の始まりを共有しているけれどそれ以外は全く別のところで生きている。
二人の願いは、最後には一つでいたい、ただそれだけ。
彼曰くわたしへの思いは増えることも減ることも変わることはないのだそう。
ただいつもそこに在るものとしてわたしを守っているし
わたしも彼が彼として今生のテーマを全うすることを支えている。
ふたりの約束は始まり(アルファ)も終わり(オメガ)も越えている。つまり永遠(永遠には始まりも終わりもない)だから
側にいないことも欠損ではないと知っている。
もちろん、感情が揺れることはある。寂しいから体温を感じたいし声が聴きたいとも思う。
でも、別のどこかではそれを味わいたくてそうしていることもわかる。
それは、恋しい相手に想いを馳せて愛しているよと心で呟く
“儚さの確かさ”みたいなものをこの世に於いて実現し続ける使命感とでも言えるのかもしれない。
好きだよ、抱きしめたいと彼が発した言葉を受け入れた瞬間ふたりは結ばれているような気がする。
それは三次元的にはまだ実現しないことで純度を増し、いつか来るその日への思いが強まる。
こうして強めるためにその欠損と呼ばれるものがあるのではないかと思えるほどだ。
ふたつの男女はどちらも”この世的”には歪に見える関係
けれど、自分を癒すためとか欲望を満たすために相手から奪おうとは思っていない。
それぞれが完璧な魂を宿していることをちゃんと何処かで理解しているから、らしい。
それこそが愛、だそうだ。
満ちているから揺らぎようもないもの。
それがいわゆる”自己犠牲”に見えるってことなのかもしれないね
3. Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven. 〜Matthew 5〜