梨木香歩さんが好きだ、と公言しているせいか
彼女に似た雰囲気の小説を勧められることが多い
今は標野凪さん、という方の新作を読んでいます
少し前には小川糸さんなんかも。
ひと言で言えば厚みが違うのだろうな、ということかな
柔らかな文章も場面設定も登場させる人々のキャラクターも
なんとなく、は似ている。だけどそれは表面的なことで
その理由は梨木さんの著作を全て手にしてもらえればすぐにわかること。
彼女の編み出す物語の厚みはそんじょそこらじゃあないの。
ファンタジーから神話、目に見えない世界と日常、新しいものと古のなにか、英語圏の文化と日本そのもの
それら一見あちらとこちらの世界を巧妙に往来しながら
表面に現れる雰囲気は何処か統一されて安心感を与えるものになっている
同じことを他のひとにも感じることがあるのだけれど
彼らに共通していることは、作者としての感情を読み手に一切感じさせないこと。
それらは彼らの作品でありながら彼らを通して表現されたというだけの
全く別次元から委ねられたものだからなのだと思う。
道具として超一流であること、それが別の彼らの共通点。
山の写真を撮らせてもらうときには山に入って直ぐは避けるんですよ
もう、いい加減歩いて、歩いて
もう、何がどうなのかどうでも良いや、と思えた途端に見えて来るものがある。
という写真家さんと
撮りたいものはなくて、ただ目の前にある”今”を切り取っている。
それがいつか大切なものになると思うから。
という写真家さん
ふたりは写真家という役割を持って活動しており、わたし達に見せてくれるのは確かに写真なのだけれど
彼らの写真は全く違う効能を持っていて、そのどちらも尊い。
わたしも、わたしらしいおかあさんとして超一流でいたいなぁと彼らに学ぶ。