ただ、わたしが眠れば良いのだ
改めてその言葉を深く味わうと
これ以上でもなく以下でもないまさしくそれだなぁと思う
愛したくて産まれて来たわたし達
どこにそれがあるかと方々探し回ったら疲れて眠ろう
恐れず静かにただ身体も心も横たえて目を閉じよう
何も見えなくなるのだろうか
なにも聞こえなくなるのだろうか
味わえない、触れられない、芳しい香りを嗅ぐこともできないだろうか
目が耳が口が手が鼻が、なぜ与えられたのかを思えば
それは真実を探るための手がかり
わたしの好きなもの、嫌いなもの、心地よさ不快感、そういう不確かなものの集積で
わたし、の輪郭を探り知る
だから敢えてその感覚を眠らせる
最早輪郭を求めるのではなく深層の真相へと進むために。
恐れず、身構えず、静かに、密かに眠ろう
それは吹き荒れる風の中ではなく
地を揺るがす力の中ではなく
燃え盛る炎の中ではなく
ささやき声の中にこそある
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主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。
見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。
しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。
しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
〜列王記上 19章11-12節〜