cases_もう、死んでしまいたい
cases_もう、死んでしまいたい

cases_もう、死んでしまいたい

子どもが学校に行かなくなってしまった、というお話を掘り下げて行くと
問題はその子にあるわけではなくて
実はおかあさん自身が自分の問題で苦しんでいる、ということがひょっこり顔を出すことがあります

子どもは、おかあさんが苦しそうにしているのを見て胸を痛め
自分のことに集中出来なくなってしまっているため学校へも足が向きません

おかあさんの苦しみを深く深く掘って行った結果
自分は誰からも愛されていないのではないか?という不安が彼女自身の奥底に隠れていました

愛されているという実感が無いので常に心が寒い。
だからひとの温もりを求め続けていますが
旦那さんも、子どもも、思ったようには応えてくれないので苦しんでいました

最初は良いのです。
誰かに愛されたい彼女はとても”善いひと”の姿をしており
あれこれと甲斐甲斐しく心を尽くした態度でひとに接します
だから多くのひとは彼女を信頼し、好ましく思ってくれています

でも、ひとというのは忘れる生き物です。かつ、慣れる生き物。
それを恵みととるか呪いととるかは自由ですが事実として、それです。
どんなに驚かされたことでも何度も出会えば新鮮味を忘れ
どんなに恵まれた環境であっても次第に慣れてしまい、飽きが来る

時を経て、最初はとても優しく見えた旦那さんも
ただの優柔不断なへなちょこパパに見えて来てしまいました
次第に彼女の”善い”ところは姿を見せなくなり
尽くしたのに応えてくれなくなった、とひとを裁くようになり
せっかくのチャーミングな笑顔も見ることが出来なくなって行きました

彼女は遂に、死んでしまいたいと口にするようになりました
それが実行されずに済んだのは子ども達を遺して行くことへの恐れだったのですが
子ども達はそのような形をとってでさえ彼女を救い続けてくれています

強いお酒も心を鎮めるお薬も彼女を救うことはありませんでした
昼からお酒を飲むようになり、陽気に見えてその実彼女はいつも憤っていましたから
出会った時も、棘のある美しいひとという印象のひとでした

いま、彼女がどう変わりつつあるか
子ども達はどうなっているか

彼女は生きており、子ども達は相変わらず学校へは行かずにいます
ただ、それを”良いこと”だと感じる瞬間がある、と彼女は言います

社会的に見て「正解」である必要は全くありません
彼女に本来の姿が戻りつつあり
子ども達と交わす笑顔が少し増え
パパは相変わらずへなちょこのまま
それを幸せだと感じられたらそれは確かに幸せなことではないかと思います

死んでしまいたい、と口にするひとは
良く生きたい、と心から願っているひとでもあります
良い、というのは何なのか
誰にとってのそれで、どの視座からのそれなのか
良い、悪いとは何なのか

少しずつ歩みが続いています
この先も続くと良いなと思っています

※この事例にはフェイクが含まれています

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