カトリック教会
カトリック教会

カトリック教会

2018年に聖書の和訳が変更され、聖句から受け取るイメージががらりと変わりました
更に2022年からはミサの式次第も変更。司祭とのやり取りの文言や作法も大きく変更されました
もちろん、カトリック教会はこれまでも大きな変化をして来たわけですが。

*聖体拝領前の信仰宣言*
司祭
「世の罪を取り除く神の小羊。
神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。」
会衆
「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。
おことばをいただくだけで救われます。」

いつかも記事にしましたが
日本人は日本人特有のスピリットを持っています
それは森羅万象のうちに神たる者への手がかりを見出し
自らもその一部で在ることへの深い感動を覚える感性。
それをまるで認めないかのようなこの言い回しに
ちょっぴり哀しみを覚えたことは事実です

また、聖書の始まりとも言える創世記において
神さまが自己紹介()をしてくれる場面があるのですが
これまでは「わたしはある」とされていたところが「わたしはいる」に変更されました

“在る”と”居る”の変化はひとつとなりの仮名になっただけ。
でもそれはとてつもないスケールの変化でもありました

その他にも、使徒信条を読み上げるときに頭をたれるだの顔を上げるだの、ね。

嗚呼やはりもうわたしはカトリック教会の歩みからは離れたのだなあと思うと
最初に覚えた哀しみは、ソドムから出るときのロトの妻のようなものなのだとわかりました

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彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、
「のがれて、自分の命を救いなさい。
うしろをふりかえって見てはならない。
低地にはどこにも立ち止まってはならない。
山にのがれなさい。
そうしなければ、あなたは滅びます」
しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。

〜‭‭創世記‬ ‭19‬‭章17‬節、26‬節〜

カトリック教会がわたしの道を整え、歩みに連れ出してくれたことは事実でした
20余年に及んだその歩みの中でこそ出会ったものは数限りなくあり
ロレトのサンタ・カーザでの出来事は
この歩みがなければ与えられなかったかもしれません

深く感謝しています

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