なぜなのか。
そもそもなぜ、とは何か。
在るものに対して、その在るものとやらを
誰かが”それはそのようなものだ”と、ある状態に固定したことに対して
そこを全て認めた上での”なぜ”なのだろうか??
わたしの頭の中は常にそんな”問い”だらけなのですが
それが”テツガクテキ”ということなのであれば
わたしという人間はそのようなものであるとも言えるかもしれません
「なぜと問うのはなぜだろう/吉田夏彦」という本を読んでいて
なんだか泣きたくなりました(笑)
がっかりして、安堵して、途方に暮れているからです
こりゃ、精神を病みもするわ。
わたしの考えていることなどほんの些細なことで
同じようなことは既に”偉人”と呼ばれるひと達がとっくに気付いていて
それを追及し続けてガクモンまで確立しちゃってるわけで
あ、でもやっぱそうよね。
生きてりゃそこにぶち当たるわよね
という、まるで同志を見つけたような安堵もありつつ
でもだからってじゃあ、今日、目の前の誰かがその
わけわからんナニカにぶち当たって苦しんでいるときには
いったい何が出来るのか?いや、そもそも”何かをする”必要なんであるのか??
ってなところです
ま、必要なんかないでしょう。
だってひとは誰でも、その問いに対する答えは自分で作り出せるのだもの。
ていうかむしろあなたじゃなきゃ作り出せないわよ
わたしの心地良さとあなたのそれは違うのだもの。
だからやっぱりね
もし誰かが痛みや苦しみを覚えて
それを超え(越え)たいのなら
考え続けること、それしかないのよね
あなたが、あなたとして何を選択するのか?ってこと
だからねやっぱりね(2回目)
壊しちゃならんのよ、誰かは誰かのことを。
考えること、表現すること
つまり”巡り”を止めさせちゃあいかんのよね
もちろん、止めさせようとする巨大な圧力があっても
するりとすり抜けることが出来るの、誰しもが。必ず。
常に巡ることと、意図的に立ち止まることをうまく使って行けたらきっともっとラクになる
痛み、辛さ、苦しみを忘れられないのはある一点にこだわるからだからさ。
受け流し続けられるときにはそうして
立ち止まりたくなったらしっかり立ち止まる
そして、また歩き出す
きっと、たったそれだけのことなんだろうな