ふと、そんな言葉が浮かんだから考えてみました
無知の理。
理、とは物事の道すじ=道理なわけで
それは常に知と倶にあるのではないかと…いうのがどうやら浅はかで
“知る”ということと”理”は常に重なり合うべきである
ということでもないっぽいよ?って。
…そのくらいのゆるさによって腑に落ちるようです
物事の極をまずは得、そのどちらをも”良し”としたときに極を越えるということを再三言っていますが
無知の理、ということもそれと同じことのようです
創世記3章に記されているエピソード
〜「知恵の木」の実を食べてはいけない、と神が告げたというそれ〜もこれに紐づいています
蛇はそのとき女に言いました「その木の実を取って食べれば神のようになる」
神のようになる、という言葉に惹かれて行動を起こしたということは
彼女は自分はそれとは違う、と、もともと思っていたということに他なりません
自分でない誰かのようになりたい=自分自身に満たされていない
だからこそ女はそのスキマに落ちて行きます(別に悪かない)
かつ、蛇の告げた言葉を静かに理解するなら
彼ははっきりと神の”ように”なると言っていますね
あくまでも”〜のように”でしかない、と。
わたし達はそもそも神と同じであったのに。
(蛇はいつだって”本当のこと”しか言わないのです)
楽園でアダムとエバは裸でした。
全てが詳らかにされていて何ひとつ隠されてはいませんでした
その、木の実を食べるまでは。
木の実を食べ、”知恵”と呼ばれるものを得て(外向きの)目が開き
互いが裸であることを”知り”いちじくの葉を綴り合わせて腰を覆った。
腰を覆う、ということはひとの本質を隠すという意味です
※”知る”という単語は旧約聖書に度々出てきます。夫は妻を知った、というように。何かあるんでしょうねきっと。
神と同じ者として生きることより
もっと波瀾万丈で五感を刺激される生き方へぐるりと回り道をして
またいつかそこへ辿り着くという大きな大きな巡りの物語。
知恵を(外から)得たい。
それによって何が豊かになるのか?
それ自体を疑ってみるのもまた一興、かもしれません
れいこさん、深いわ〜…
>しのぶさん
うへへ。
↑
台無し
昔からこういうのが得意なんです!
口から出まかせ?
または瓢箪から駒
…ちゃっかり漁夫の利??
うへへ、濡れ手に粟。
いや…塞翁が馬か?
…なんか違うwww
いや、そうでもないか
うーむ、ううむ。
ビバ!考え事!楽しい!
(シラフです)