本当は怖い”読書”へのスタンス
本当は怖い”読書”へのスタンス

本当は怖い”読書”へのスタンス

本を読むこと自体が素晴らしいことなのになぜ
怖いだのそうでないだのってのが発生するんだろう?
思うに、日本の教育の在り方ってのが深く関わっているんだろうな

子ども達はいつもせき立てられている。
答えを出すこと、それも大衆に受け入れられるような”正答”を出すことを求め続けられる。
そのくせ決して”考えること”をさせない社会。

そんなことはないよ、とは言わせない。
こっちゃー12人分30年、なんなら自分の学生時代を合わせてエビデンスを集積してい…
あ、いけない。年齢の話はやめておくわ←アホ

ていうかさ。
考えさせるならそもそも校則だなんていうクソみたいなものをわざわざ作らないよね?
忙しい忙しいつってる先生なそんなことまで監理しないけんのかいな

バカバカしいと思ってると思う。ただ…
校則をおとなしく守っとかない子ども達がバカだと思ってるように見える。
そんなもんいらねーんじゃね?って思えないことがバカバカしいのにね

髪の毛が金髪になろうがつるっぱげになろうが
ボサボサ寝癖のままだろうがなんだろうが
その人としての本質になんの影響があろうか。
それが本質と繋がっているのだすれば
最終的に表面に見えているそれは、むしろ結果では?
立ち現れたそれから子どもの本質を理解しなさいよ

服装の乱れが心の中乱れって。
まずその乱れってのは何基準なのさ

みたいなことって、たぶん子ども達は延々考えていられるんだよね本来なら。
でも大人たちがそれを許さない。
スキマがあるからそんなくだらないことを”考える”んだ
だから有益な課題を詰め込んでそっちに取り組ませよう!となって
やれ部活だお稽古事だ塾だなんだとぎっちぎちに予定を詰め放題にする

でね、
読書へのスタンスもそう。
課題図書があって読書感想文書けってのは誰もが出会ったことのある出来事だと思うけれど
「なにも感じませんでした」って書いたことあるひと、いるのかな。
なぜ何も感じなかったのかということを、わたしなら何百枚でも書ける。

「読書をしたら、そこから何某かを拾い上げなければならない」

そんなバカみたいなことを標榜するなと言いたい。
拾い上げなかったのなら、なぜそうであったか?を考えれば良い。
で、それについて語らえばもっと良い
へえ、そんなこと考えているんだねってもっと深掘ってやったらもっともっと良い

読書なんてのはトリガーなんだよ、ただの。
“既に在る”感性がそれによって揺さぶられ、目覚める。(または今はまだ目覚めない)

世界中にあるあらゆる本のうち殆どは著者が何かを訴えたくて書いているのだと思う
その本に出会ったあなたはその、訴えなるものをどうするのかがあなた自身の自由であると知れば良い
内容を批判するならなぜそうなのかを熟読後に表現すれば良い

だからわたしは読書会に参加するのが好き。
次なるお題は谷川俊太郎さんの詩集なのだけれど
正直、彼の紡ぎ出すものを”良い”と感じたことは一度もなく
自分なら手にすることはきっと、ない。
読書会に出て皆が何を感じたのかそうでもないのかを味わいたい
そういうスタンスで本を読むことも実に楽しいのさ。

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