「わたし」の成り立ちについて少しお話をしようと思います
その昔日本では「和多志」という漢字を当てていたとかいないとか。
どこかの誰かの陰謀でそれが消えただとか消えないだとか
それが事実なのかそうで無いのかは大きな問題ではありません
わたし達は一人一人の心の中に自由に思いを抱くことができるからです
「すべて、外から人の体に入るものは、人を汚すことが出来ないことが分からないのか」
〜マルコによる福音書7章18節〜
と、聖書にも書かれているとおり
誰かが外からあなたに対してどんな圧力をかけようとかけまいと
どんな悪を持ってあなたを傷つけようとしようとするまいと
そんなことに目を留める必要はありません
さあ、では本題に入りましょう
「わたし」は、実は三つの異なる位格の集合体です
それぞれは完全に独立していながら、「(全体である)わたし」の成り立ちを担っています
まず、わたし達が自分そのものだと感じているのは「わたし(自我)」の部分です
全てのひとはその内側の深いところに「わたし(真我)」を内包しており、それが神そのものであり、揺るがない愛、永遠に輝く光です
その二つを渡すために「(渡しとしての)わたし」がおり、カトリック教会ではこれを「聖霊」と呼びます
それら全てが一体となって「(全体である)わたし」=「わたし」が出来ています
思い出してください
あなたは自分の中にある複数の声、存在を感じたことがあるはずです、例えばこんな場面で…
仕事帰りの電車であなたは疲れた体を座席に沈めようとあたりを見回します
目に入るどの顔もすっかり疲れていて、他の人を見渡す気力もありません
ほんの少しだけ誰かがもう少しだけ体を退けてくれたらなんとか…(少し窮屈かもしれないけれど)
座れそうな隙間があなたに見えたとします
あなたはそこに分け入って、両脇の人の不快そうなため息にもめげずになんとか腰をかけて座りました
さあ、目を閉じてあとはじっとこの時間を過ごせばやっと一休みするための時間が待っている、そんな時。
塾帰りなのでしょうか
きちんとした身なりの小さな男の子が、体に合わないほど大きなカバンを斜めにかけて乗り込んできました
彼もさっきのあなたと同じようにどこかに自分が滑り込めるくらいの隙間が無いかと周囲を見回しています
けれど大人達は誰もその、遠慮がちな視線に自分の視線を絡めようともしません
こんな時間の電車に乗り込んだ不運を呪うんだね、とばかりにみじろぎもしない大人たちを前にして
その子も割と平気な顔で吊り革を求めて手を伸ばしています。けれども吊り革に身を任せるにはあとほんの少し背が足りなさそう。
迷わずあなたはその気の毒な子に何か声をかけるでしょうか
都会の子はそんなのに慣れっこだからと無視をするでしょうか
近くにいてスマホの画面を覗き込んでいる学生くらいの男性に配慮がない、と腹を立てるでしょうか
その時あなたの心の中でいくつかの声が聴こえませんか
「どうする?」「面倒くさいな」「だけど助けてあげたいね」「でも・・・」
それらの声こそが「(全体である)わたし」の中で「わたし(自我)」と「わたし(真我)」と「(渡しとしての)わたし」が
それぞれの立場から意見を述べているという状況なのです
またあなたは別の時きっとある決断をして、それがたとえ一時的には辛くても正しい選択だと感じたことがあったはずです
そしてそれが、社会通念だとか既存のルールに則って決めたものではなく
自分の内なる声に導かれて出した結論だった時、あなたはもうしばらくしてその時を振り返ると
その辛かった決断を受け入れた自分が、以前よりは少しだけでも自分というスケールを広く深く変化させたことに気がついたことでしょう
わたし達が「わたし」だと認識しているのは、実は「(全体である)わたし」のほんの一部。
それを知るだけでもあなたのこれからは今までとは違ったものになるはずです