さーて、今回もまた程よく怪しいお話となる予感(笑)
善い行いを行うことを功徳を積む、と言い表すと考えていたのですが
どうやらそれだけだとなんか足りないようなので蛇足ではありますがちょいとお話させて下さいね
ていうか、龍は足あるしね。(早速アホ発動)
善い行い、良い行い、好い行い。
これらって絶妙に意味が違うっぽくて
善い行い→他者を慮る気持ちに動機付けられる行い
良い行い→道徳的に良い行い
好い行い→多くの人が見て好ましいと感じる行い
というところでしょうか?まあどっちみち全部良いものではありそうなのでそれはまあ良いとして。
仏教、なんですかね?功徳を積むという表現て。
と思ったので早速ググってみました
功徳
功徳(くどく)とは、仏教用語、または神社仏閣における用語、あるいはキリスト教神学の用語である。
→なーんだ・・・普通に共通の概念なんだな。
仏教用語としては、善根を積むことによって報いられる功能福徳や、現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行のこと。
→おお。輪廻転生という概念がある宗教においてはそういう解釈ね
神社仏閣においては、神仏の恵み、御利益(ごりやく)、利益(りやく)を意味する。
→あら、なんだか一気に”他者(神様)からもたらされるもの=棚ぼた的雰囲気。ていうか神社仏閣って、もはやごった煮感。
キリスト教神学では、ある善業を行うことによって得られる報償を受ける権利やその報償、それを得る道徳的善業のことである。
→”ある善行”ってなんだろ。(笑)
へー。ほー。ふーん。面白いですね
ではわたしの知っていることをお話ししましょうか。
まず、大前提としてそれは”喜びのうちに”行われるとは限らないというか
もちろん魂レベルではとても喜んでいても、感情としては痛いとか辛いとか…そういうことも多々ある、という印象です
ひとは根本的にそうではないはずなのですが、魂に自我を纏っていますから
それが厚ければ厚くなるほど小さな灯りである愛の光のことは無視しがちです
そういう意味では利己的な傾向がある、と言わざるを得ないのですが、それであっても
良いことをすることは出来ます。例えば道に落ちている小石を少し脇に退ける、とか。
想像して欲しいのです
小石を脇に退けることって自分ではない他者のためではないですか?
あなたは既にその小石に気が付いているのだから、それに蹴つまづくことはまずないでしょう
もしかしたら躓きそうになったからその小石に気づいたのかもしれませんね
後から来る誰かが躓かないように、と瞬時に判断して脇に退かせることがあるわけです
そしてそれについてあなたは誰かに感謝して欲しいとはおそらく考えていないのではないでしょうか
全ての良い行いを、同じくらいの熱量ですることが出来るようになる、そのことが
仏教でいうところの善根を積むことによって現世・来世に幸福をもたらす
つまり、ごく当たり前に良いことを行う人は自我に翻弄される機会が減り、自由になれるということになります
そしてそれは魂の一番奥の暗闇の中にひっそりと灯る愛そのものが持っている力で
それこそが人がこの世界に生まれたいと願った根源でもあるわけです
聖書には、右の手のやることをを左手に知らせてはいけない、という言葉があります
良い行いを、もしあなたが誰かに見てもらいたくてするのなら
あなたはこの世で報いを受けてしまうから、というのがその理由です
良い行いというのは、先に書いた通り個人的なことです。内的にどういうことが起こせるようになるか、そこに意味があります
こんな良いことをしたよ、あんなこともしたよと報告することは決して悪いことではないけれど
残念ながら本当の意味であなたを救う”良いこと”ではないわけです
天に宝を蓄えよ、とも聖書には書かれています
あなたの宝のあるところには心もあるから、と。
自分がどこで生きるのかを考えれば自ずと答えが導き出されるような気がしますね
肉体はもちろんこの世=三次元で生きるけれども
魂の望み通り=もう少し高い次元で生きるということを選ぶこと
それが真のライトワーカーであり、全ての人の本当の姿なのかもしれません