心の貧しいひと
心の貧しいひと

心の貧しいひと

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心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、 その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、 その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、 その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。

‭‭〜マタイによる福音書‬ ‭5‬章3‬-‭10‬節〜

イエズスの最初の、根本でありシンプルな訓えのひとつがこれ。
初めてこれを聞いたとき、心の貧しいひとってなんぞ?と不思議に感じたし
真理を言語化することの難しさみたいなものが如実に現れているなーと思っています

心が貧しい、って一般的には良い意味ではないよね
個人的には”さもしい”に近いような使い方をされているなと感じる。
で、ここで言うところの心の貧しいひとというのはもちろんそれではないわけでそこを解説してみよっかなーと思います

世間が使う心の貧しいひとって、貧しさを認めたくがない故の焦燥感みたいなものに突き動かされて
何か(という漠然としたアテもないもの)を卑しく求め続ける傾向があるけどそれって
いわゆる肥大化した自我(エゴ)※自我自体は悪いものじゃないよ、何度も繰り返すけど。
の求めるまま他者から搾取しようとする動きなわけでつまり心には自我の欲求が際限なく渦巻いているの
だから決して空っぽではない

対して聖書で言われる心の貧しいひとというのは正反対で
心に何も持たないことを認めているひとを示す。
でもね、それは自我を放棄するとか喪失するってこととは違うの
なぜならひとは身体とそれを同時に得ているから。
自我はあくまでも、自分でない誰かを身体を使って愛することを実行するために
自分でない誰か、を感じることが出来る唯一のものなわけだからそれは在り続ける
無くなっちゃったら亡くなるのよ、本来はね
もしかしたら心というものがそもそも
それが自我の淵というか…筒のようなものをそれたらしめるものなのかもしれないねえ

そんで、何だっけ。
あ、そう。貧しさね
貧しさ、としか訳せなかったんだろうかと甚だ疑問なの。
そこって英語では「poor」が当てられているんだけど
つまり本来は恵まれていない、とか可哀想な、とかそういうニュアンスなんだと思うの
この世的に見て恵まれていないだとか憐れみを受けるよう対象になるような人々に対しての言葉がこの聖句なんだよね

気の毒だ、と言われるようなわたし
悲しんでいるわたし
それでもなお柔和で神の義(愛)に飢え
憐れみ深く心の清さを保ち平和を実現するわたし
そのために誰からも非難されるならそれは幸いだ、とそういうことなんだよね

イエズスの最初の、根幹となる訓えだ!と紹介しておきながら
いきなりコケるところに何某かの意図を感じるよね
たぶんそれは
はあ?ドユコト?なにそれ?を待っているんだと思うの

聖書にしろ他の宗教の聖典みたいなものにせよ
全てはもともとこの世にいるひとが備えて産まれてきた
“目に見えないが明らかに在るそれ”についてそれぞれのインスピレーション
つまり人智を超えたところからのメッセージを書き留めたものなわけだから
鵜呑みにする必要もないどころか、むしろ思考停止しちゃう危険性があるのだという危機感を常に何処かに置いておかなきゃならない

そしてそれが、聖書で言うところの棘、なんだよね。

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それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。
それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は
「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

〜‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭12‬章7‬-‭9‬節〜

これについても言いたいわー
痛めつけるためにサタンから送られた使いって(笑)
もうさ、そもそもなんだよね聖書の解釈!

書いてあんじゃん。
神さまはそれが在るからこそ力が十分に発揮されるのだ、って。
必要だから与えられてるんだよ
それをあんた、サタンのヤロウがあたいを痛めつけるためによぅ、みたいな言い方必要?

ま、それも同じよ。
はあ?サタンてワルモノなわけ?なんで?ってなりゃ良いの。
言葉の上っ面だけを撫でてそのまま娑婆の価値観で読み解こうったって土台無理なのよー

はあ。長くなっちゃった
やっぱりね、聖書について話すと長くなるよねうん。
それはわたしだから出来ることの一つだと思う
だからこそそれを自ら得たもののように誇ることなく
けれど灯された小さなあかりを台の上に置くように
求められる場所で柔らかなぬくもりとして生きられたら
それがたぶん一番の幸せなんだと思う

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