わたし達はそれぞれ、目の前の誰かを愛するために
そのひとが、自分の中に既に在る愛の灯火を思い出すようにと望んで産まれて来ている
だけど、目の前にいるのに
言葉を交わせるほど近くにいるのに
手を伸ばせば触れられるのに
どうしても交歓できないひとってのがいる。
表面的な話ではなくてもっともっと深い部分のお話
なぜ同じものが見えていても交わらないのだろうと
それを切ないなと感じていたけれど
それはわたしがひとであるからでその感情を味わっているだけらしい。
そして、マリアもやはりひとだったのだなと思わせるエピソードがある。
世界各地で涙を流すマリア像ってやつがあるけれど
涙を流すキリスト像だとか仏像ってのはたぶん無い
彼女ほど感情豊かなひとはいないだろうし
身を貫く痛みを受け止めきったひともいないだろうと思う
つまり彼女はやっぱりひとなんだろう。
感情が揺さぶられる、それはそれで良いらしい。
あなたの目の前に立った誰かにはあなたが見えない可能性があるし
あなたを見ていても体温を感じられないこともある。
何故ならそのひとはあなたとは別の場所にいるから。
螺旋を描く渦を真上から見た時
そのひととあなたは隣同士にいるように見えても
別の場所から見れば全く違う階層にいることがわかる
どちらが上か下かということは、それもない。
ただ、同じ場所にはいないという事実がそこに横たわっているというだけ。
相手はあなたの場所まで来るひとなのか
今生はそこに留まるのかそれは相手が決めていて
あなたが手を出すべきものでもないと知れば良い
どうしても
どんなに想っても
手を伸べても
触れたくても抱きしめたくても
叶わない相手ってのはいる。
わたし達はそんな彼らを追いかけるためではなく
目の前に立ってわたし達を待っているひとりひとりに
想いを寄せ、手を差し伸べ
抱きしめて愛を囁き続けるために生きている
あなたの息子であってもそれがどちらなのかはわからない