あなたは誰かを愛していますか?
愛する、ってなんでしょうね。
聖書には以下のように綴られています
『第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
〜マタイによる福音書 22章39説 新共同訳〜
どのように愛するか、についてはっきりと書かれていますが
自分のように愛する…実はこれこそが
ひとにとって一番難しいことなのです
何故ならひとは自分が誰なのかを知らないから。
この聖句のひとつ前にはこうも書かれています
『イエスは言われた。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして
あなたの神である主を愛しなさい。」
これが最も重要な第一の掟である。』
〜マタイによる福音書 22章37節 新共同訳〜
ここで言う「あなたの神である主」というのはわたし達の心の奥底にある
源の神である愛そのものの光に繋がる部分、つまり真我のことで
真我を見出すことが愛を知ること、なのですがそれを知るためには
光が闇であること、ゼロがイチであること、始まりが終わりであることを知る必要があります
というか愛を知ればそれは自ずと理解出来るようになるってだけのことだけど。
多くのひとが「自分」だと考えているのはたいてい自我の部分のこと。
自我は確かに、広義では自分の一部分なわけですが自分そのものではありません
自我は感情を掌っています。
喜びを感じることが出来るのは自我があるからこそ。
喜びは天において愛そのものとして在った頃の名残りですから素晴らしいものですし
他者との関わりによってそれを得られるときに
与え、そして与えられることで互いに交わりぬくもりを感じます。
けれどそれは愛するということの記憶の尻尾を掴むきっかけにすぎないのです
愛は感情ではありません
変化することも揺らぐこともなく満ちているもの
神、光、あたたかさです。
愛するということはあなたが愛であることを思い出すことであり
相手の感情や態度に揺さぶられることはありません
愛は与えるもの、与えられるものではなくそのものと一致すること。
自分のように愛せよ、というときの「自分」を見失っているから
わたし達は誰かを愛せないのです。
けれどそれでも「あなたを愛している」と伝えたくなる相手がいるとすればそれは幸せなことです
誰かを愛したいとひとが願うのは、それこそが
見失っている「自分」を見つける…つまり
「自分を愛する」ことまで辿り着くための道だと知っているからなのかもしれませんね
目の前の誰かを愛するとき
あなたは自分を愛することが出来るのかもしれません
そのひとを愛さぬ限り自分を愛することもきっと出来ないのでしょう
それはもしかしたら一番寂しいことなのかもしれません