オーラ、だとぅ?
オーラ、だとぅ?

オーラ、だとぅ?

スピな話がどちらかと言えば苦手です
聖書を生きることにコミットして過ごした20年間というのは
スピを意図的に遠ざけたのと連動していたなと今思います
聖書の学びも、一歩間違えると絵空事になってしまう危険性があるのね
教会で説教聴いてるときは聖人になった気になるけど
一歩娑婆に戻ったらただのエゴモンスターに戻る的なヤツ。

意味ないのよ、そういう思考停止した生き方って。
まして聖書を盾にして他者を下に見始めたら最終形態とも言える
つまり自分は教義的なルールに則っているからおまえより正しいみたいな思想
これはそこらへんの社会と全く同じ構図で成り立っていて
どんなに小さな共同体にでも起こりうること、つまりヒエラルキーの形成に繋がるし
わたしはそれが何よりも意味ないと感じたから外に出たんだなと思っている
別にそれが苦にならないならそこに残れば良いし
心地良いと感じているからこそ残っているのだから
そこを離れたひとをやいやい攻撃するのはなんか違うと思う。
それもいつか書くだろうと思うけど。

で、スピ界隈にありがちなオーラの色診断、みたいのも苦手だったの
そもそも色を、何某かの概念を伝えるために借りて来てなんじゃないかと思っていて
それを聞かせることによって何がしたいのかがよく分からないんだよね

で、わたしが見えているものについて考えたところ
色というよりそれの質感というか状態というか、そういうものなんだけれど
それだって別に良いじゃん、てことなんだなーと思う
色から情報を得るための感覚器官より発達した部分があるのだったらそれを使えば良くね?というシンプルな話

どだい目に見えない世界なんて解釈は各々に任せてくれても全然OKなものでしょうが。
何故そこにまで共通認識を持たないといけないと考えるんだろ。
…とか言いつつわたしの知っていることと同じことを知っているひとがいるってことは紛れもない事実なわけだから
やっぱり何かしらの法則めいたものはあるのかもしれないなとも思う

けれどそれだって逆に言えば法則なんてもんは単なる事実だよね
なんか知らんけど別々のところで誰かが話していることがどうやら同じような話っぽいぞ?ってことでしょうし。

まあとにかく、わたしはわたしが感じるものそのまま認めれば良いわってことになった。
これはとてもわたしをラクにさせてくれる発見で、スピ界隈のわちゃわちゃが苦手なのもそのままで良いんだなってことになった

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