もともと、持って生まれた性質としてわたしは
出会ったものがなぜそうなのかの理由を探るのが好き。
山々があまりにも美しく思えて「なぜわたしはそう感じるのか」と思わず口に出た時
「美しいな。」で良くない?と、隣にいた大切な友人はそう言って笑った。
彼女はそういうところで実に潔い。
目の前に在るものをそのまま、ありのまま切り取る才能がある
わたしは180°逆
なぜ、どうしてを追いかけることをいつもしている
答えが一つではないことは百も承知
ただただ深掘りして行く道行が楽しいのだ
つまりわたし達が何かを見た時
凡そその人の目に見えている部分とそうでない部分を
ふたりで感じることが出来るのではないかと思っている
そんなわたし達の共通点を探したところそれは
出来事に意味を求めない、という部分なんじゃないかと思った
起きたことは起きたことなのだと受け止め切る、という部分で彼女とわたしは同じだと思う
もちろん、対応はこれも正反対。
同じ年の息子がそれぞれにいるのだけれど
彼女は息子のやらかしのたびに全力で向き合って来た。
時には彼に対して人生訓を手渡し、共に体験し、共有することをとても大切にした。
“呂律がまわらなくなるほど感情に突き動かされる”と聞いた時
あまりにも振り切っていて笑ってしまった。
彼女がわたしの言葉で笑うのとそれはたぶん同じ
意外すぎてハマる。
わたしは基本的に子ども達の挙動には興味がない
やりたきゃやれば?という感じ。
ただ、SOSをキャッチしたときは出来る限りのことはする
いつだったかは早朝まだ空が白む前、その子がバイクで事故を起こしたと救急隊から着信したことがあったけれど動揺はしなかった
5人目を妊娠中のひとりの夜に熱性痙攣を初めて起こした次男の発作が長くて救急車を呼んだ時
当時5年生くらきだった長女を筆頭に4人の子どもを引き連れて(預け先が無かった)同行した。
当時末っ子で1歳にならない三男も高熱を出していたし
まだオムツをしていたから荷物も多かったけれど帰りのタクシー代もしっかり忘れずに準備して向かい
もう痙攣が収まっていたにも関わらず点滴処置で1時間かかると説明を受けたときも丁重にお断りして…
とにかく、数限りない場面において
ふたりはそれぞれとしてそれぞれらしくいて
そのことがきっと大切なのだと思う
これからのふたりが楽しみ。