子は親を喜ばせるためにいるのではない
親は子を喜ばせるためにいるのではない
昨晩三女と延々話していてそれを改めて思い出した
三女の言い分はこう。
一つ、あれダメこれダメと制約が多すぎる
→多くはインターネットの使用に関すること、テレビがないことも。
一つ、お手伝いが毎日必ず課せられるのがムリ
→食器洗い、洗濯物干し、床掃除を子ども達に輪番でやってもらっている
これは専業主婦だった頃からそう。
てめえの使ったものを片付けることくらい体得しろ、という考えに基づく。
家族、家庭という揺るがない場所において
生活基盤のあれこれがハードモードなのは好ましいと考えている
何故なら社会に出た時それらは家にいた頃よりはるかにイージーモード
社会人になれば他のストレスが半端ないのだから基礎の基礎なんかに手間取っている場合じゃない
何も考えずにいても身体が動くようになって欲しいと思っている
ひとつ、お前のせいで家族が壊れたのに威張るな
→パパが家にいなくなったことを家族が壊れたとするのは何故か
毎日家にいて怒鳴られて叩かれていた頃が今より良いとする理由は?
お父さん、お母さんが揃っていてこそ家族だとする根拠は?
家があり電気水道があり十二分に食べられ衣服があり小遣いもあることを心が何と言っている?
パパに会いたければいつでも会える、お小遣いももらっている、遊びにも連れて行ってもらっている。
社会通念てやつに踊らされてない?
もし単純に、本当にパパが家にいなくなったことが辛いなら
ママが壊れてしまわないために選ぶしかなかった、ということを許して欲しい
ODで救急搬送されること、笑わなくなることが続き死んだように生きるママと
それでもママを求めて荒ぶるパパと生活し続けたかった、というならそこはママが甘えすぎたと振り返りもしよう
けれど結果はこれ。
パパは新しい居場所を作って逃げた、ママはそれを受け入れた。
わたしのファイヤーウォールはかなり堅い。
堅すぎること、それは自覚している
けれどそこには扉が無いわけじゃない。
16歳になりスマホを持たせるまでは鍵をかけてあるけれども。
鍵を開けた、ということは当然伝えてある
開いて出て行きたければご自由にどうぞ、だ。
18歳になって仕事を始めればその扉は消える
敢えて開いて行かずとも自由に外に出られる
ただし外に出た瞬間そこはファイヤーウォールの外。
強固なセキュリティに阻まれておいそれとは内部に戻れない
戻ることはその中のローカルルールに従うことを意味する
出たいのか、戻りたいのか、戻りたくないのか出たくないのか
それはわたしがコントロールしていない
わたしはただの壁。
子ども達が全員この壁を越えたときその壁は跡形もなく消え
それまでとは全く違う”家族”として始まると考えている
全員が対等に社会人、おとな、自分で考え行動するひととして。
子どもがどんなにおべっかを使ってすり寄っても
(それは良い成績、おりこうであることやなんか)
わたしは壁を低くしないし扉をたまには開こうとしない
なにをしようがするまいが変わらないように見えて
いつかには気配すら残さないもの、それがわたしというママ。
ちなみに三女は6:00くらいに帰ってきました
本格的に出て行くのか壁の中に戻るのかは知りません