迷い出た羊のたとえ

あなたがたはどう思うか。

ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば
九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。

はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら
迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。

そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは
あなたがたの天の父の御心ではない。

‭‭〜マタイによる福音書‬ ‭18‬章12‬-14‬節〜

この例えを用いて神さまの愛を説明するひとは多くいる。
例え話の概要はこちら

狼がいつ羊を連れ去るかわからない山の中のとある牧場には
朝な夕なに100匹の羊たちの世話をしている羊飼いがいる

シェルターのような頑強な壁の施設の中に羊たちは閉じ込められているのではなく
降り注ぐ太陽の光も雨も
山肌を撫でて行く雲の影、風、木々のざわめきや
空の鳥虫たちの気配もすぐ手の届く場所にある
そして羊たちを食べてしまおう、と狙う狼もまた直ぐ近くにいる。
だからこそ羊飼いは常に羊たちのために見回りをする

さあ今日はもう柵の中にお入り、と羊たちを促したとき
はて一匹のそれの姿が見えないぞと彼は気づき
おとなしく柵の中に入った99匹をその場に置いたまま
広い山々の向こうまでその迷い出た一匹を探しに行く。

もし彼がその一匹を見つけることが出来たら
従順だった99匹がそこに留まってい続けたことより
見つけられた一匹のことをおおいに喜ぶだろう。

さてさて。
この例え話は比較的わかり易いもので
ほう、ほかの99匹の”安全が確保されていない”とあっても
神さまはふらりと迷い出た羊を探しに行くのか。
ん?でも待てよ?
もしその1匹を見つけたとて
戻った時99匹が狼に襲われていたらどうなるんだ?とか
言いつけを守っていた”正しい”99匹を危険に晒すのか?など
次第にそういう疑問がわいてきた時こそがこの例え話が真価を発揮する

新約聖書におけるイエズス・キリストの例え話は全て
その例えを聞き、それについて思考を巡らせ
その人なりの”なんとなく引っかかるもの”が浮き出ないなら意味がない
素晴らしい説教を聞いて法話を聞いて「ほう、ほう。」と頷いても
帰りの駐車場の大混雑に舌打ちをするなら意味がないのと同じ。

だからこそ、毎日の出来事の中に
或いはいまわたし達を苦しめる出来事の内に
どんな宝を見つけ出すか、に全てはかかっている

人々の涙を拭うハンカチでいたい、とあるヒーラーは言うだろうしそれは素晴らしいことだと思う
わたしも、誰かの流した涙の粒を全てが使われている
そのひとの心の美しさにそっと寄り添う、目に見えない王冠を手渡せたら良いのにと願う

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