昨日、大好きな画家のコオロギさんとあれこれお話をさせて頂いたとき”ことば”の限界についての話題になりました
“ことば”ってなんでしょうね
おそらくそれは道具のひとつなのですが
大前提として、少なくともある程度の共通したルールを認知している同士でなければそれは道具としては使えません
わかりやすく言えば英語を使っては、わたしは自分の表現したいことをこれっぽっちも伝えられないってこと
これは英語を文法的に話せるかどうかってことではなくて
ひとつの単語が含む、目に見えないそれにまつわる概念とかいう”余白”を何ひとつ理解していないためです
逆にいえば日本語であればその深淵を観ながらいかに大衆的な言い回しで他者にとっての理解への機会を創り出すか、ということなら簡単にできる。
“それ”に近づくためには限りなく近づきそれを言語化することは有意義だけれど、ある時が来たら”それ”を言語化することを手放さなくては”それ”には到達出来ない、とでも言えばわかりやすいかな。
じゃあどうやってそこまでひとを近づけるかと問われたら
“それ”を知っているひとであれば感じる程度の距離まで連れていけることができれば
あとは自ずと”それ”とひとは共鳴し合い、個々の認識の最もわかりやすい表現として両者が出会うのだろう、ということです
紙コップに入った緑茶があるとします
あなたがいまこれを読んで思い描いたそれは
おそらくわたしのそれと寸分違わず一致するということはない。
でもそれで良いわけです。それが”余白”=”遊び”=”自由”
じゃあ自由ってなに?となるけれどそれはアンコントロール。
コントロールすることを手放したとき、それは目に見えない大きな力によって”自我を超えた”ところのコントロール下に内包されるから。
アンコントロールは”意図的なフリー”とは違います。
“意図的なフリー”は決して自由ではない。
つまんねえ発想したと思われたくないわーwというエゴ丸出しの考えが生み出す”自由さを装った承認要求”に囚われないように、ね。
つーわけで
わたし達はこれからとても大切で、かつわくわくが止まらないミッションにとりかかることになるのです
互いに限界値を知り放棄したからこそ到達出来る世界がどのように着地するのか
わたしはわたしでまた別のことを楽しみながらその”時”を待ちたいと思います!