天国だとか地獄とか
天国だとか地獄とか

天国だとか地獄とか

死んだのちに地獄に落とされる、ってのは
幼い頃から絵本やなんかから伝え聞いていました
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」とか、
落語の「死神」とか、ね。

これらの物語にふれたとき
あゝもう少しだけなんとかなればなぁ…という
なんとなくむずむずする感じっていうのは
自分のあり様を振り返りなさいねというメッセージではあるけれど
わたしにとっては表現が仏教的すぎるというか
ジャッジする雰囲気が常にそこはかとなく漂っていて実は苦手です

なのになぜ
一神教を説き、もっとひどいあからさまなジャッジをする神について語るカトリックの道を
長い時間かけて歩いたかのと振り返れば
むしろそこでは神のジャッジ(裁き)について、露骨に伝えてくるので
跳ね返すも受け止めるもし易かった、ということかもしれません

「わたしは罪びとです」
って、はあ?って感じ。
かつ、そう言いながら胸を打つ姿を”誰か”に見せつけたくてたまらない
そういうのを何十年繰り返しても歩みは進まず、ただ同じところをぐるぐるとするだけでした(わたしは、ね。)

けれども、その道を歩いたからこそイタリアへ行き
ロレトにて小さな約束を交わせたわけだし
何もかも無駄ではないのだ、とその出来事が示してくれているように思います

さてさて、今日の本題。
タイトルに掲げた天国だとか地獄は
実はもうとっくに在って
ただそれは完全に目に見えない世界の話だから
見ようと思わなければ見えないものなのです

でも、目に見えない世界ってのは
目に見える世界と繋がっているので
通訳出来るひとが在りさえすれば
あー、そういうこと!
…誰にでもわかることだったりもするんだよね

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