子育て、というのはそもそも
誰かが(実質)ひとりで取り組むようなものではありません
家庭においても、社会においてもそれは
次代を担うひとを見守るという意味で”全体”が関わるものです
動物の社会を見ればそれをはっきりと見ることが出来ます
吹き荒ぶ嵐の中、じっと身を寄せ合うペンギンの子ども達だとか
遊びを通して社会性を培う子猿たち、だとか
彼らは群れの中の新しいエネルギーとして全体に守られています
ひとも少し前までは”家族”がこんなにも孤立していなくて
ムラという大きなコミュニティの中のものであっただろうし
家族に於いても、本家、分家などが存在し多世代が同居ないし近隣に住んで互いに支え合っていました
幼い子ども達は身近にいる様々な大人たちをつぶさに観察し
憧れの存在を胸に抱いたり、逆に反面教師を得たり
成長に応じて自身の経験値に基づいてある部分を深めたり手放したりして来ました
それぞれに持って生まれたものがある、という大前提のもと
それでもある意味、ひとは縁あるひととの関わりから好ましいものを纏った寄せ集めの集合体でもありました
必ずしも整合性がとれているわけでもなく、むしろ多様な側面がひとの厚み、深みを醸していました
子ども達それぞれが自由に選んだものですから
それがいずれその子らしさ、そのひとらしさとして定着して行き
いつかその子は新しい別の子どもに憧れの視線を向けられる大人になります
子ども達はバカではないので大人を鋭く分析します
たとえ言語化に拙いとしてもそれは問題になりません
「なんかこのひと胡散臭いな」とか
「厳しいけれど温かみがあるから好きだな」など
放っておけばそれぞれ勝手に好きなおとなを見つけて来ます
最近では学習でもスポーツでも指導者を選ぶのが大人(親)の役割のようになっていて
やれこの学習塾のナントカ先生はこれまでこんな実績があるから、とか
この高校の部活の指導者はこんな選手を排出して来たから、とか
そんな情報のほうが重要視され過ぎているように思います
指導者が出した結果は、ある意味それを成した人材に出会ったときの幸運に過ぎません
結果を出せる人材を育成出来た指導者は須くどんなひとにも同じ結果を出させることが出来る、というのは幻想です
才能あるひとを最重要視して他の子を蔑ろにするような指導をするひとがいないとは言えず
それを薄々知りながら、でもその指導下に子どもを預けておくことこそが親としてのステータス
そんな世迷言を信じてはいませんか
より豊かなものを、もっとたくさんの可能性を、と願っているはずなのに
むしろ子ども達の選択肢を減らしてしまっている可能性があるのかもしれません