まずは、点。

点で思考するな、とはビジネスシーンでもよく使われる表現です
例えば取引先からAというモノが欲しいのだと相談を受けたとき
仕入れ先にAの見積もりを出してもらい
なんなら他の仕入れ先にも相見積もりを取る。
取引先に対しては自社のマージンを乗せた価格で提案…てのは誰でも出来ること。

なぜ取引先はAを所望したのか?
実は既にBを保有しており、それと組み合わせて何かをしたいかもしれない。
…という、直接の問い合わせとは別の点Bを探り出し
なんならそれらから生み出される点Cを見つける、か、或いは”創り出し”
更に点A、点B、点Cを繋いだ線から面を感じさせることが出来れば
たった一つの点でしかなかった問い合わせから
もっと大きな取引を成立させられる可能性がある。

これは、人生に於いても同じように展開することが出来る

“好き”を、ひとは心ゆくまで探すべきで、かつ、それは
持って生まれた感覚を使うようにと準備されている
“感覚”が他者と符合するのか否か、と、論じるに余る余白を有したまま存在することは
それが他者との関わりの中でだけ重要視される”必要”があるわけではないことを表している可能性があるのではないだろうか。

そうである、と仮定するのであれば
“好き”は他者の介在を必ずしも必要としないのではないか、というところを動機づけとして
敢えてその視座を閉じることから考察を進めても良いのではないか。

さて、その”好き”を出来るだけ多く集めることは
ただの白い紙の上にどんどんと点を打ち続けるようなものであるとも言えるであろう。
自由に、その時手にした色を使って、或いは使わないことも、一度うった点を消したり上書きすることさえ
誰からの評価も憚らずに自在に操ること

そして…”時がくれば”
その、無数の点と点を結んで線を引くなり
それらを集合体として面と定義するなり、
いやいやそのままの無数の点をぐぐっと遠くに追いやって解像度を下げ
朧に見える絵画のように味わいたい、もまた、良い。

その中に一つでも
他者の指示によって意としない点があり
その点が及ぼす全体の不調和が
もしかすると看過出来ないほどの違和感となって
あゝもう、いっそ全てを無いものにしたい…というような
怒りというカタチで発露する深い哀しみともならない可能性が無きにしも非ず

だからこそやはりわたしは
とことん、”好き”を希求する

なーんてね。
ま、なんつの
好きなものかき集めたほうが幸せじゃーん

て、ただそれだけよ。
シンプルにそれ。

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