世の中が変化する
それはとりもなおさず「自分が変化する」ということでもあるのだろうなぁと思います
そしてその「変化」というのは「変わらない」ということでもある…
この週末3日間は濃密でした
大好きな場所、久住高原童心回帰農場の10周年そして
同じ場所に始まる生きること学ぶことに困窮する子ども支援機構「ルンジースクール」開校式
そして竹田城下町交流プラザでのフライベント
なにがどう濃密って…個性際立つ彼らが手を結んだ時に放つ熱量の測り知れない大きさ
誰がどう、なんて到底書き尽くせもしないことをきっとそこにいた全員が思っていたと思います
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体は一つでも、多くの部分から成り
体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である
つまり、一つの霊によって、わたしたちは
ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと
皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか
もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか
そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです
すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また
頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし
見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです
コリントの信徒への手紙一 12章12節-26節 新共同訳
もしわたしが自分を偽ったら
わたしに出会いたかった誰かはわたしを見出さないでしょう
もしあなたが自分を隠したら
あなたを探していたわたしはあなたを見つけられないでしょう
41年前の夜の別れがわたしをその場面に繋ぎ止めたからこそわたし達は再会して結ばれた
数年前のとある日に「ここで雇ってください!」と突撃したからこそ今日がある
34年前からずっとずっと守り可愛がってくれたひとが繋げてくれた
何もかもは突然起きる出来事などではなくて、縁。
繋がっているのだから怖がらず
間違えたように見えたって大丈夫
本当に繋がっている縁は何処かで切れてしまうようなものではない
わたし達が意図的に目に見えなくするまでは。
縁は切れない、誰とでも。
わたしを憎んでいるひとがいる
わたしを忘れたいひとがいる
いいの、そちらからは見えなくなろうとも
わたしはこの縁をありがたく繋いだまま
それが少しでも温かなものとなりますように、と思いを送り続ける
さーて。
「陰」を司る者として(笑)
だれかの涙をとりこぼさぬよう
震える肩にそっと手を添えられるよう
前を向け前へ進め、目の前にいまあることを見よ!
…という自分のための戒め。
今までの経験則に縛られず…臨界点突破するぞよ

