映画「急に具合が悪くなる」
「あなたは、誰?」
この問いに真っ直ぐ答えられるひとが
果たしてこの世界に息をしているのだろうか
むしろそれは息を吐き切った後にしか
しかも自らによって、ではなくて
見送る誰かにしか答えられない問いなのかもしれない
「ナニカ」を残すことが
それを成し遂げることが「生きる」ことなのか?
本作は複雑に見えるけれど
いくつかの、ごくシンプルな問いによって構成されていたと思う
あなたは誰なのか。
即ちそれは「どう生きるのか」ということへの本質的な問いである。
そして、「混沌」という現代社会が過剰に恐れているそれが何なのか、という問い
そしてもう一つは、なぜこの世から争いが絶えないのか、という問い。
濱口竜介監督の作品には
カトリック教徒であれば直ぐにその匂いを察知するメタファーがいくつも散りばめられているような気がする
drive my car に於いてはルツ記が劇中劇(アントン・チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』)で引用される場面が使われたし。
いつも道は二人一組で歩む…というような表現もあった、
それでいてタブーを打ち破ることの必要性も。
本作では洗足式を思わせる表現があって作中で重要なメッセージを表していたし。
鳩は幸せの象徴であるし
民衆が悦楽に溺れる中、神の啓示に従ったノアの方舟の後に於いては「新しい世界」を知らせる者だったし。
のっけから「あなたは誰ですか」という問いに、わたしの涙腺は崩壊してしまった
それこそはわたしが出会ったひと全てに問うて来た問いであり
天の国の門でわたし達が必ず問われる、それだから。
物語は「命」の向こう側が透けて見えている真理と
「構造」に闘いを挑むマリーとの邂逅から始まる
それは「混沌」をあるがままに受容する舞台から始まる
精神を病む者と健常者と呼ばれるひとの境界が破壊される様をまざまざと見せつけられる観衆
ここではまだ観衆は観衆でしかない。演者(当事者)が観衆達(外部)との垣根を壊そうと意図しても。
マリーは悲しみ故に怒っていたし、だからこそソフィの愛に最初は気づかない。
ルール、規範、リスク回避を重要視する姿勢に批判的であった彼女と
構造に対する恐れによって硬直していたソフィとの和解という「新たなる出会い」が何によってもたらされたか、こそが
肥大化した合理主義を突破する唯一の逃げ道に繋がる。
とはいえ物語は「道半ば」で幕引きを迎える…
わたし達がわたし達として生きることは
何処かに辿り着くこと、ではなく
問い続けること、語り続けること
迷い続けること、挑戦し続けること、かもしれない
脚本は書き換えられる。
舞台には「何度も失敗する」というメッセージが加わる。
それを過剰に恐れ回避し先回りしてリスクを取らないこと
それが「健康」なのか、と最後に問う。
観客はすでに演者であり
舞台は混沌そのものである
その場に居合わせる全員がそれぞれの「生」を演じるのだ
真理は消えた
けれど繋がって行く
真理は死なない
それが、巡りというものなのかもしれない
色即是空 空即是色
奥深い映画だった。
「構造」に飛び込まんとする自分が
マリーに重なりつつ。
drive my carの劇中劇でアストロフが言う
「人間は、自分の中に備わっている才能や感情を、すべて美しいものにしなければいけませんよ。」
とてもとてもとても背中を押されるような夢見心地のわたしでした。
ちなみに「真理」は「しんり」だし
「マリー」は「聖母マリア」だし
わたしの洗礼名はそれ。
(ソフィ…は哲学の入り口にいるしね)
「悪なんてない」がもしわたしの「トアルさん」と同じなら
ぞわっとしちゃう!
悪魔は神…という価値観ね。(それによりカトリック離脱)
