わたしは今日も

初めて出会った日と変わらず
どんな時もそうであったようにそのひとを愛しています。

つったって!
人間じゃないの、いや、人間か。
それはイエズス・キリストと呼ばれるひと

少し前に、30年お付き合いのある
ポルトガル出身の宣教姉妹にばったり出会いました
彼女はわたしと同じ年
まだ日本語が全く話せない頃からの付き合いで
もともと母国で看護師をしていた彼女は
わたしの出産のほとんどを力強くサポートしてくれました

ある時は泣いてわたしを呼ぶ小さな子を抱いて
彼らが泣き止んで落ち着くまでずっと傍にいてくれて
陣痛の波の中で虚ろになりかけたわたしを幾度となく励ましたし
おぎゃあ、と声を上げた赤児の臍の緒がまだ
わたしの子宮に留まる胎盤に繋がったままの場面にも立ち会ってくれました

彼女はいつもわたを抱きしめてわたしの頬に自らの頬を重ねながら
日本という東の果てで、宣教師としての自らの働きの実りを愛でるように喜びに満ちていた…けれど。

わたしが
教会を出て、この良い報せを
教会の外のひとに届けるという意向を示した時
ある兄弟が言葉を失い
別の兄弟が密かにわたしを裁き
別の兄弟が地獄の門の前にわたしが立った、とつぶやいたのと同じように
かぶりを振って哀しみを表しながら
その奥に横たわるわたしへの裁き、
でも赦したい赦されていると伝えたいという
幾重にも重なる彼女らしい感情を見せました
わたしはそれらを全て振り切って、教会から出た。

それはある年の四旬節から復活祭に向かう時期で
早朝から始まる朝の祈りの場にいた皆が
わたしという「罪人」の扱いに戸惑っていたことを今でもはっきり覚えています

わたしは彼らに言いました
「自分はあの女のように罪を犯す者でないことを感謝する、とあなたがたは感じている。
それはかつての日、徴税人を侮蔑したファリサイ人の祈りと同じではないか?
わたしを罪に定めたことを天は知り、
しかしわたしもあなた方をも贖う。
その意味でわたし達は未来永劫「兄弟」で在り続ける。
けれど、わたしは去る。」

思いがけない再会に
彼女はいつものようにわたしを抱き寄せて頬を頬に沿わせ
「わたし達は兄弟です」と言った
「知ってるよ」とわたしは応える
「知ってる?」と彼女はわたしの瞳を覗き込む
「知ってる」とまた、応える

わたしは「転んだ」けれど棄教してはいない
それを再確認させられた文月第一の日。

この国にはこの国に相応しい形の「神」がいる
それもまた、良い。
「汚点」として生きることの美しさを
彼なら理解するだろう、という希望を胸に抱いている

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