何処へ辿り着くのかはわからない

ずっと、ずーっとやりたいことがあります。それは
気の向くままに旅をするという人生を送ること

もちろん、帰る家があるという幸運を手放したいということではないし
子どもが12人もいる、という事実をしてわたしは生涯「母」ではあり続けるわけですが。

出来ればその旅は九州と本州を繋ぐ山口あたりから始まって…
日本の背中をゆっくりと北上し
道々寄りたくなった町で途中下車してナニカと出会い
それじゃあ次はどこへ行こうかとまた、感じるままに歩を進める

もちろん旅先では情緒あふれるお宿に仮住まいをして
思いつくこと、目にしたことを文字にして残したり
美味しいアテをほんの少し、お酒も少しあったりなんかして
ゆっくり湯につかりつつ星空を見上げる…

次の町へいつ出かけても良い、居心地が良ければ少し滞在を延ばしても良い…ただし、居つきはしないこと
何処へ行くかも何をするかも一切決めず流れるまま流されるままに暮らす
ああー本当にこの国は美しい(のだろう)

とある学校で、新教科が設立されました
公開されている情報ですので以下に引用します

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将来が予測困難な時代において、持続可能な社会の創り手となる子供たちが、主体的に課題を解決し自己実現をかなえる学びの機会は必要不可欠である。近年の子供たちの学習や生活の状況は様々であり、学校現場は多様な教育的ニーズを求められ、一斉授業だけでは学習意欲の向上を図り、育成すべき資質・能力を育てていくことは難しい現状がある。
そこで、子供自身が「なりたい自分」を思い描き、その実現に向け、今現在の自分にとってどのような力が必要かを考えさせることにより、主体的な学びの実現に向かい、何をどのように学ぶのかを含め、柔軟に学習過程を選択することのできる教科及び教育課程の編成が望まれる。
新設教科「じぶん創る科」においては、一人一人の特性や学習進度、学習到達度等に応じ、指導方法、教材や学習時間等の柔軟な提供・設定を行うことなど「指導の個別化」を進めるとともに、個が設定した課題の解決に向け、自己調整学習理論(シャンク・ジマーマン、2009)に従った学習サイクルを活用し、ICTを活用しながら自らの学習が最適となるよう調整していく「学習の個性化」の実現を目指し、研究開発を行う。

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前向きで意欲に満ち、今の日本社会の課題をしっかりと見据えています
当該校はかつて深刻な問題を抱えたことのある学校で
幾多の困難に真摯に向き合って来た力ある学校です
立地としては富裕層と呼ばれる方々も多く暮らす地区にありながら
常に教育の刷新、児童へのあたたかな眼差しを忘れない素晴らしい学校です

学校が、国がこういう篤い思いを持ち子ども達の中に在るナニカを大切に育もうとしていることは
わたし達保護者の立場からすればとてもありがたいことだと思っています
ありがとう先生、ありがとう学校、ありがとう教育委員会。

このような動きを下支えするためにわたし達保護者も動き始めるべき局面を迎えています

さて、社会の移り変わりは渦のようなものだと以前書きました。
そういう視点から見たとき現代の日本社会が大きな渦であるとすると
上から見た時にはそれが右回りの渦であれば(逆でも良い)下から見上げた時には必ず左回り(逆も然り)となります

この場合、学校や教育委員会、国が
「なりたい自分」を思い描くこと…つまり「未来」にフォーカスするという初動をとるなら
わたし達は同じ強さで「今日、目の前にあることを自分なりにこなして行く」ということを積み上げること
先のことなど知らぬ、それくらいの強さを以て全力で身近なあれこれに、真摯に向き合う必要があります

体験すること、感じること、失敗を重ね、その失敗を恐れず自分に取り込むこと。
わたし達オトナは、積み重ねたそれがあるからこそ子ども達を見守ることが出来ます

痛いこと苦しいこと…悲しみ、迷い、憤り、後悔
それらはわたし達の器をぐぐっと押し広げるものです
あたかもろくろの上の土くれが陶工の手によって形を変えられるかのように。

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陶工は粘土で一つの器を作っても
気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。
そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。

イスラエルの家よ、この陶工がしたように
わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか
と主は言われる。

見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ
お前たちはわたしの手の中にある。

‭‭エレミヤ書‬ ‭18‬章‭4‬節-‭6‬節 新共同訳‬

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旧約聖書の言葉はかなり強いのですがこれは真理です
カトリック教会では陶工を神、土くれを我々としますが
それは違います

陶工はわたし達自身、土くれもまたわたし達。
例えるなら真我と自我…とでも言いかえればわかりやすいでしょうか

土くれ、つまりわたし達の自我(自意識)は
自分がどのように成って行くのかを理解することは出来ません
でも
陶工たる自我を超越した真の部分のわたし達はそれを知っている。

だから委ねれば良いんです、自分自身の感覚に。
感覚は感情ではありません
感情は感覚によって立ち現れるものだから。

逆上がりができない子どもがそれに対面した時
「あ、イヤだ」と感じることが感覚
だから向き合いたくない、これが感情

「あ、イヤだ」をもっと大切にする必要があります
立ち止まって「なぜイヤなのか」を深掘りする必要があります
丁寧に時間をかけて静かに向き合うと
「皆の前で恥をかくのがイヤ」である、とか
「冷たい鉄棒の感覚がイヤ」である、とか
「他にやりたいことがあるのに強制されることがイヤ」
などなどなどなど…
実は感覚のそのすぐ先にはこういった個別特有の理由めいたものが潜んでいます

かつては体験を重ね、丁寧に深掘り出来る社会背景がありました。
何度も同じ場面にぶち当たり、感じ、消化して昇華させるという循環が当たり前に存在していたのです

目まぐるしく変化する現代においては
意図的にその時間を作り出す必要があります
塾だ宿題だお稽古事だなんだかんだ
webだゲームだSNSだ、と
個人で到底処理しきれないほどの大きな流れに巻き取られないように注意が必要です

あーあ、堅くなっちゃった。
ほんっとわたしってクソまじめなんだから…www
ま、いいや。そういうことなの。
流れにどんぶらこっこしようず
(いきなり手放す)

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