雨の日

一番好きなのは、雪の夜。
世界中の気配がすべて消えてひとりぽっちに、なる
深く、深く自分の中にすべり込むための扉のような夜

雨の日も、好き。
誰かに会うために、または誰かと出会ったあと
もしくはそんなことにはおかまいなしの別の意図を持って走る車の通りゆく音をながめる

昨日からの連休は雨続き
土用に干しそびれた梅をもみもみ…柔らかくなあれの呪文をかけたけれどまだしばらくは梅酢の中

今日は子ども達とゆっくり出かけようかなーと考えています
じりじりと照りつけるお日さまの下でカラフルな水着をまとって海へ川へ!…は
考えただけでゲンナリ、わたしにはちょっと荷が重い。
とことん「陰」なんでせうな、ほほほほほ。

今日は県立図書館へ行きましたー
「よあけ」という絵本はアメリカの絵本てことになっているけれどユリー・シュルヴィッツさんはポーランド人
かつ、東洋の文化芸術にも造詣が深い方なんだって

わたしはこの手の「は?」ってのが大好き。(または「で?」)
「問い」が立つからこそ自分の中に”既に在る”なにかが揺れる。
わたしにとっては世界の全てが「問い」のためのトリガーで
だから事象そのものにはさして興味がない、というか…
でもだからこそ12人の子ども達のおかあさんなんてもんが務まっているように見えてるんだろうなあと思います

つきあってらんないの。
それぞれが好き放題にもたらすあんなこととかこんなこと全てにのめり込んでたら死んじゃう!

昔から子ども達をめぐって…たとえばあちこち謝罪に奔走したりとか
ごめんなさいすいませんありがとうを伝えに行ったりとか(同じことや)
そんなのは単なるネタだったよな。
もちろん、誠心誠意向き合うんだというのは揺るがない大前提ではあるけれど
たとえば長男のことで頭抱えてたら次男も別のことやらかして三男も苦情もらったり…てんてこ舞いなの
だからお恥ずかしいこと乍ら、わたしの子育てなんてやっつけ仕事の集積でしかない
でも、それでも良いですよと言ってくれる方ばかりがいる、という
「ありがとう」が過ぎる環境に浴させてもらっています

思うんだけど、例えばいま「自分らしさとは?」という問いに対する答えが見つからないと思っているひとは
他者から自分がどう見えているのかを知るというのも良いことだと思います
「他者からどう見えていたい自分か」じゃなく。

つまり社会的な評価ってのは文字通り「社会」がするの、それはつまり他人からの評価ってことなんだけど
辛辣なことを平気で言うようなひとには誰しも出会いたくない。

いま、おかあさん本舗を選んでくれる方々はみんなとても頑張りやさんで
頑張って、頑張って、頑張りすぎなくらい。なのにまだもっともっとと自分を追い込んでいる

だからこそわたしに出会うと「は?」となるらしい(笑)
え?なにそれ、そんなんでいいの?は?って。
「いいんだよ、…なぜ良くないかもって思うの?」
この「問い」がすべてを始めるための鍵になるの。

ひとつ扉が開けば次々に開く。
何が入っているかわからない(といいつつたいていは魔物が潜んでいると警戒する)扉を前にまた慄く。
だーいじょうぶ、だいじょうぶよ、って伝えると勇気を出してみたくなる。
おそるおそる開いてみる…そしたらやっぱり大したことない(と自分に許可出来るようになる)。

この繰り返しなの、内省…つまり自分との出会いってのはさ。
間違いなんてないのよ、絶対に。
え?絶対なんてものはこの世にないって?それがさあ…
絶対に無い、ってものは絶対に在るのよ。
面白いでしょう?(あ…そうでもない?)

ま、いいの。
わたしのそういう世界観は変えられないものなの
フィットするひとが何処にもいなくてもしゃあない
でもだからこそ自分自身にはぴったりハマりたいってわけ
おかあさんてのをやってるひとは特に、ね
たまにゃ静かに自分と出会えたらいいよね

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